※この文章は、1998年4月1日ぶなの木出版発行の季刊誌『ひとびと』第71号に掲載されたものをウェブ用に加工しました。
(漢数字は数字に直してあります)


 

シンポジウム「『能力主義時代』の教育と労働とは」


武田 さち子
(三多摩「学校・職場のいじめ」ホットライン電話相談実行委員会)


 三多摩「学校・職場のいじめ」ホットライン電話相談実行委員会(以下いじめホットラインと略)が、1998年1月31日、東京・府中市中央文化センターにて「『能力主義時代』の教育と労働とは」というテーマでシンポジウムを開催した。
 当日、約200名収容の会場に対して250名を超える参加があり、この問題に対する人々の関心の高さを改めて感じさせられた。

●シンポジウム開催にあたって

 私たちは昨年6月、東京・三多摩地域において、4日間の学校・職場のいじめ電話相談活動を行った。
メンバーのほとんどは一般公募した市民相談員で、いわゆる“素人”集団。しかし、多くの大切な場面で専門家の判断が正しいとは限らないと、私たちは知っている。
 そういう意味でも今回、小沢牧子さん(和光大学講師)と熊沢誠さん(甲南大学教授)のお二人を、人々に何かを教える“講師”や“先生”という立場ではなく、問題提起する人たちとして位置づけ、“さん”づけで呼ばせていただいた。

 シンポジウム開催の背景には、どんなに学校や職場の事象に取り組んでみても、みんなの意識が変わらなければ、いじめは増え続け、自殺する人も、キレる若者も後を絶たないという、私たちの思いがある。

 サブタイトルに「学校っておもしろい?職場って楽しい?」とつけたのは、子供たちにとって学校は本来、多くの仲間と出会い、新しい知識を得て自分の世界を広げる面白い場所であるはずだと思うから。大人にとって職場は、生活の糧を得る場であると同時に、生き甲斐にもつながる楽しい場所であるはずだと思うからだ。
 それが今、学校も職場も、死にたくなるほど苦しい場所になってきている。
何故?という疑問符の中に、私たちは「能力主義」というキーワードを見つけ、ここに問題提起する。

●「能力主義」と学校 −小沢牧子さんの話しから−

 いじめも、ナイフを手にキレてしまうという事象も、学校を覆っている能力主義と深くかかわっていると思う。
 
 能力主義がどのようにして、学校にはいってきたのか。
日本の学校は常に経済界の主導下にあって、教育改革提言が引きも切らず出されている。そして学校の能力主義は、政治的な流れの中で年月をかけて準備されてきた。

63年の経済審議会答申に「高度の能力を持つ人を尊重する意識を持つべき」という下りがあり、この頃から人間の序列化が進められる。
70年代指導要領で、「学校はみんなが一緒に生活する場ではなく、子供を選別し振り分ける場」となり、親たちもこれに加担した。
80年代から段々に、人間形成の重視が強調される。子供たちは偏差値で細かく振り分けられ、民間活力導入ダブルスクール化が進む。
かつて学校がもっていた役割は全部、商品となって出ていってしまい、学校の価値は低下。学校に行くことは無意味に拘束され続けること。この頃から不登校やいじめが始まる。
90年代の指導要領で、学校知評価から学校的な人格であるかどうかの態度評価に変わってきた。
全ての行動が点数化され、意欲までが評価の対象とされる。この場合の意欲とは、教師が望むようなやる気、何が求められているかを察して自発的に動くことを指す。
 
 子供たちはそのような学校の雰囲気を十二分に体で感じ、四六時中評価されることの息苦しさから、理由なんかなくいじめなくちゃならないほど、イライラしてきたのではないか。

 学校はまた、子供にどんな能力を身につけさせようとしているのか。
 体験とか質とか地域、具体的な生活をはぎ取って、記号を操作する知へ押しやる、抽象的な一般性や普遍性ということをつぎ込む。本当は、子供たちにとって仲間は決定的に必要で、仲間といたい、一緒に過ごしたい、分かち合いたい、という願望は強いけれど、それを与えられない学校というこの苦しさがいじめになっていると思う。学校で連帯感を熱く味わえるのは、いじめの時だけという切ない話しもある。

 では、私たちがそのことと向き合う為に、どのような努力をすればいいのか。
 言葉にならないムカつき気分を抱えた小中高生の言葉をじっくり聞くこと。そして、今とは逆の方向性を強めること。
体験とか、生活の質とか、地域というものを取り戻し創っていく。
大人がまず地域の中で出会っていくことが先で、学校もそのような地域に支えられて初めて、子供が子供と出会う仲間と出会う関係の場に変わっていく。その先に、教育における子供の息苦しい状況を変える、能力主義を問う答えがあるのではないだろうか。

●企業社会の能力主義といじめ −熊沢誠さんの話しから−

 今、日本の職場の様々な場所で、明らかな差別と人権侵害としか言いようのないようないじめが大変広範に広がっている。一方で、近代社会の所産というべき能力主義管理が広く深く浸透している。日本の場合、能力主義の強化が、宿命的にいじめと結びついている。

 日本の労働者は就職するのではなく、就社する。日本企業が従業員に要求するのは、人としての潜在的な能力、非常に柔軟に仕事をすることへの適応力。
人事考課は、仕事の種類や仕事の実績というドライな評価ではなく、人としての評価、情意(態度・性格)を問う。結果として、価値観の統合を求め「会社人間」を造る。このような考課がいじめの遠因となる。

 また日本では、仕事の種類、働く場所、賃金を上司が決める余地が大きい。
この労働条件の個人処遇化が能力主義管理の真髄であり、競争・選別が激化すれば、連帯的規制が失われ、個人処遇化がさらに強まる。必死のサバイバル競争のなか、自分にとって少しでも問題のあるものは排除しておかなければならない。

 エリート層が能力主義に賛成するのは当然としても、ノン・エリート層までもが、自分も本当はそう思っていたんだと、積極的に自分に言い聞かせ、背伸びしながら頑張る。
労働者は、時代のコンセンサスみたいになっている能力主義に、簡単には反対できない。しかし、女性や中高年層等の競争の機会平等だけではなく、能力の内容や、高すぎるハードルを問題にすること、行きすぎた能力主義には反対できる。自分にとって譲れないものを大切にする価値意識としての個人主義、自分にとって大切なものにもっと固執しなければいけない。一方で、連帯による生活防衛も失ってはならない。

 さしあたっての対処としては、いじめ110番を通じて弁護士に相談するとか、企業別組合でない組合が代理的に交渉に立ち上がるとか、告発が必要だとかしか言えない。企業内でいじめられる人は、企業外での支援と連帯を受ける必要がある。 そうすれば、上野仁さんの人権裁判闘争のように、あの東芝にさえ勝つことができる。

●シンポジウムから学んだこと

 会場討論は活発な発言で大いに盛り上がった。
反対意見も数多くあったが、それらはむしろ、最初から意図するところだ。喧々囂々の議論を重ねることが、視野を広げ物事を深く考えるうえで大いに有効であることを、私たちは活動のなかで学んできた。

 また、小沢さんの発言の中に、「能力主義管理と評価は表裏一体だが、評価される側にも問題があって、評価されたいということもある」とあったが、同様に、シンポジウム運営に対する批判の中に、仕切られることに馴れ、いつも誰かが結論に導いてくれるのを待つ人々の姿勢が感じられた。
結論は自分で出すもので、他人から与えられるものではない。

 今回、小沢さん、熊沢さんのお話しを聞いて、いつの間にか学校が企業戦士の養成所と化していると感じた。相変わらず、国を挙げての富国強兵論がまかり通っている。
大きな流れのなか、ひとりでは押し流されてしまいそうになるが、仲間といっしょなら少しは踏みとどまれるかもしれない。新しい流れを創り出せるかもしれない。会場に集まって下さった多くの人たちから勇気を得て、少し希望が見えてきたような気がする。
  



       
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